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【名誉県民】小渕 恵三
小渕 恵三(おぶち けいぞう)
昭和12(1937)年6月25日~平成12(2000)年5月14日
顕彰日/平成12(2000)年5月14日
事績
昭和12(1937)年6月に群馬県吾妻郡中之条町で小渕光平、ちよ夫妻の二男として生まれ、中之条中学在学中に学習院中等科に編入するまで、幼少年時代を地元で過ごす。
その後、都立北高等学校を経て、昭和37(1962)年3月早稲田大学第一文学部を卒業、同年4月早稲田大学大学院へ進学。
昭和38(1963)年11月大学院在学中に衆議院議員選挙に出馬、全国最年少の26歳で当選を果たす。
昭和45(1970)年1月には、その実直な仕事ぶりが評価され郵政政務次官に就任。また、昭和47(1972)年7月には田中内閣で建設政務次官に就任した。
昭和51(1976)年に同郷の福田赳夫内閣が発足するや衆議院大蔵委員長に抜擢され、税制や金融など直面する課題に積極的に取り組んだ。
昭和54(1979)年11月の第2次大平内閣の発足に当たり、総理府総務長官兼沖縄開発庁長官として初入閣。その後、衆議院安全保障特別委員長や衆議院予算常任委員長等の要職を務め、国の根幹にかかわる重要問題の解決に大きく貢献した。
昭和62(1987)年11月、竹下内閣において内閣官房長官に就任し、首相をよく補佐し、国家の発展のために昼夜を惜しまぬ努力を続けた。また、昭和天皇崩御に際して新元号「平成」を発表し改元時における重責を担った。
平成3(1991)年4月には自由民主党の幹事長に就任。海部内閣を側面から支えるとともに、国会対策などに力を注いだ。さらに、平成6(1994)年7月からは、党副総裁に就任し党の重鎮としてその地位を確固たるものとした。
第2次橋本内閣時の平成9(1997)年9月、外務大臣として再び入閣し、各国との友好関係の増進に積極的に取り組むとともに、同年12月には、カナダ・オタワで対人地雷全面禁止条約に調印し、我が国の平和への強い意志を世界に示した。
平成10(1998)年7月30日、第84代内閣総理大臣に就任。「富国有徳」をスローガンに「経済再生内閣」と位置付け、数々の経済政策を矢継ぎ早に繰り出した。特に景気浮揚のため財政政策を積極型に転換し、過去最大の緊急経済対策を実施。さらに、金融秩序の安定にも心血を注いだ。
一方、地方分権、情報公開など、21世紀の我が国の土台となる重要施策に果断に取り組むとともに、外交面では、積極的な外交を展開し、世界秩序の安定に努力を傾注。平成12(2000)年7月に行われる主要国首脳会議の沖縄開催を英断した。また、教育面においても教育立国とすべく抜本的な教育改革を推進した。
日本経済安定のため身も心も砕かれて尽力し、我が国を今日の発展に導いた最大の功労者の一人として、その偉大な功績の数々は、温かな人柄とも相まって、正に群馬県民の誇りとするところである。
(平成12年6月10日群馬県報登載)