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【名誉県民】福澤 一郎
福澤 一郎(ふくざわ いちろう)
明治31(1898)年1月18日~平成4(1992)年10月16日
顕彰日/平成4(1992)年3月11日
事績
北甘楽郡富岡町(現富岡市)で父仁太郎、母はつの長男として生まれる。
大正4(1915)年旧制富岡中学校を卒業後、旧制第二高等学校英法科を経て、大正7(1918)年東京帝国大学文学部に入学し、彫刻家朝倉文夫に師事した。
大正11(1922)年第4回帝国美術院美術展覧会(帝展)彫刻部に「酔漢」が入選し、彫刻家としてスタートを切るが、大正13(1924)年渡仏してからエコール・ド・パリに影響され、絵画へと興味を移す。
最初シャガールに、次いで初期ルネッサンスの画風にひかれ、ルーベンスの大画面と肉感描写の迫力に魅了される。さらに、キリコとエルンストの影響を受けて超現実主義風の作品を描くようになるなど、7年間にわたる滞仏期間中の貪欲なまでの様々の画風の消化吸収は、その後の福澤絵画の基礎を築いた。
国内においては、滞仏中の昭和5(1930)年独立美術協会の結成に参加し、翌昭和6(1931)年の第1回独立美術協会展には、パリから「科学美を盲目にする」など作品37点を特別展示した。同年6月に帰国した後は、昭和14(1939)年に退会するまで、独立美術協会を舞台にシュールレアリズムの作法による大作を発表し続け、我が国の美術界に大きな衝撃と影響を与えた。昭和14(1939)年には、新たに美術文化協会を結成し、活動の拠点とした。
戦後は、「人間に執着し、人間を描くことにおいては、戦後の混乱期が最も精彩があったように思う。」と自ら述べるように、モニュメンタルな人間群像を次々に描き出し、昭和21(1946)年には個展「ダンテ神曲地獄編による幻想から」を開催し、敗戦の世相を風刺した作品を発表したのに続き、昭和23(1948)年の第2回現代美術総合展に「敗戦群像」を発表し、戦後の社会状況を象徴的に描いた。
昭和24(1949)年美術文化協会を脱会し、翌年北海道を旅行して北海道風物を主題とした作品を発表したのを皮切りに、ヨーロッパはもとより、中南米、南アジア、ニューギニアなどの世界各地を巡って、人間の諸相をテーマにした文明批評的とも言える壮大なスケールの大作を次々と発表し続けた。昭和29(1954)年から32(1957)年まで美術文化協会に再度入会し、同会の立て直しに尽力した。
この間、昭和32(1957)年には第7回芸術選奨文部大臣賞を受賞したのを始め、同年の第4回日本国際美術展に「埋葬」を出品し、日本部最高賞を受賞し、翌昭和33(1958)年には第9回毎日美術賞を受賞した。また、昭和37(1962)年の第5回現代日本美術展に「黒人聖歌」を出品し、国立近代美術館賞を受賞した。
一方、後進の養成という面においても、昭和35(1960)年に多摩美術大学の教授に就任したのに次いで、昭和39(1964)年からは女子美術大学の教授も兼任し、多くの学生の指導、育成に当たった。
その後、昭和46(1971)年個展「地獄門」を開催し、ダンテの「神曲」地獄編をテーマにした作品などを発表するなど、神話や歴史を主題とする作品の制作を始め、昭和49(1974)年には新設の群馬県立近代美術館の名誉顧問に就任し、同館の開館記念展に作品51点を寄贈した。さらに、昭和56(1981)年には福澤一郎魏志倭人伝展を開催し、卑弥呼や邪馬台国などの歴史に取材した一連の作品を発表したのに次いで、昭和60(1985)年には「ノアの方舟」など旧約聖書に想を得た作品群を発表した。
こうした優れた芸術作品及び創作活動は高い評価を得るところとなり、昭和53(1978)年に文化功労者となったのに続き、平成3(1991)年には文化勲章を受章するところとなり、名実ともに、現在の日本洋画壇の最高峰に位置している。
現実を冷静に見つめ、人間ドラマ、人間の葛藤をキャンバスにたたき付けるあふれんばかりのエネルギーは、尽きることなく新しいテーマへと向かわせ、絵画に思想と主題を盛り込むという希有な福澤芸術を展開し、90歳を超えた今もなお、200号の大作を描き続けている。
(平成4年3月11日群馬県報登載)