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【名誉県民】土屋 文明
土屋 文明(つちや ぶんめい)
明治23(1890)年9月18日~平成2(1990)年12月8日
顕彰日/昭和62(1987)年10月28日
事績
群馬県西群馬郡上郊村大字保渡田(現高崎市)に、父保太郎、母ヒデの長男として生まれ、明治37(1904)年県立高崎中学校に入学し、国漢の教師であり歌人及び俳人でもある村上成之に師事して作歌の指導を受け、自然主義文学への目を開かれた。
明治41(1908)年同人誌「アカネ」に蛇床子の筆名で短歌、写生文及び詩を投稿し掲載された。
明治42(1909)年第一高等学校に入学し、村上成之の紹介で伊藤左千夫方に寄寓して短歌の指導を受け、「アララギ」に短歌を発表した。その後、大正2(1913)年東京帝国大学文学部哲学科に入学し、翌年には、芥川龍之介、久米正雄、山本有三、菊地寛らと、第3次「新思潮」の創刊に参加した。
大正6(1917)年荏原中学校の教職に就き、「アララギ」の選者となり、その後、長野県諏訪高等女学校長等を歴任した。
大正14(1925)年処女歌集「ふゆくさ」を刊行、歌壇の絶讃を浴び、さらに、昭和5(1930)年「アララギ」の編集・発行人となるとともに、「往還集」を刊行し、歌人としての地位を固めた。以後、「山谷集」、「六月風」及び「小安集」と次々に歌集を刊行し、歌境を深め、歌壇に「文明時代」を画するとともに、万葉集の研究にも当り、昭和19(1944)年「万葉集上野国歌私注」を刊行した。
昭和20(1945)年5月戦災により東京の自宅が焼失したため、吾妻郡原町川戸(現東吾妻町)に疎開し、農耕をしつつ「万葉集私注」を執筆し、8巻までを刊行した。この川戸の生活を歌った「山下水」及び「自流泉」の二歌集は、円熟した技法と高い思想に支えられ、戦後短歌の進路をも決定づけた。
また、昭和21(1946)年6月には「アララギ」の群馬県支部機関誌「ケノクニ」創刊に当たって、最高顧問として有形無形の影響を与えるとともに、選者として、今日まで多くの短歌愛好者の指導と短歌の普及向上に貢献している。
さらにまた、師伊藤左千夫の遺志を継ぎ、万葉集の全歌首にわたり、新たな視点から長年研究を続け、その成果は「万葉集私注」(全20巻)として集大成され、昭和28(1953)年日本芸術院賞を受賞し、さらに、昭和59(1984)年文化功労者となり、昭和61(1986)年には文化勲章を受章した。
このように、明治、大正及び昭和の三代にわたり数多くの短歌集、歌論集を刊行し、近代短歌及び現代短歌の優れた歌人として独自な歌境を開拓し、斉藤茂吉と並び「アララギ派」を代表する歌人であり、常に歌壇の先駆者として重要な役割を果すとともに、長い年月を費やしての「万葉集」の研究に注ぐ情熱は、数々の名著として結実し、「万葉集」注解の権威者として確固たる地位を築いた。
(昭和62年10月28日群馬県報登載)