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古墳時代、群馬は東日本最大の古墳大国でした。これまでに県内で発見された古墳は、全国屈指の数や大きさを誇ります。
群馬では、なぜたくさんの古墳が造られたのでしょうか。
保渡田八幡塚古墳(高崎市)左上下、観音山古墳(高崎市)から出土した埴輪右上、観音山古墳の玄室の中の様子右下
古墳時代から平安時代にかけて、現在の関東地方で栄えた文化を「東国文化」といいます。群馬県は古墳時代には「上毛野国」と呼ばれ、豊富な資源や、朝鮮半島から伝わった最先端の文化・技術を持ち、東国文化の中心地として繁栄していました。
当時の日本は、奈良・大阪などの畿内地域が政治・経済・文化の中心でした。この地域を治めるヤマト王権は、東国と良好な関係を維持したいと考えていたため、経済・文化的に東国をリードする「上毛野国」を重視していました。
県内には、ヤマト王権とのつながりを示す大型の前方後円墳や豪華な副葬品など、歴史的な遺産が数多く残っています。
平成24年から5年をかけて県が実施した古墳総合調査により、県内に1万3249基の古墳の存在が確認されました。このことから、群馬は東日本最大の古墳大国であることが分かります。
古墳はおよそ3世紀後半から7世紀にかけて造られた、地域の有力者などを葬る墳墓のことで、古墳の築造時期により、その形や大きさなどが変遷しています。
群馬には、全長210メートルと東日本最大の規模を誇る天神山古墳(太田市)をはじめ、大型の古墳が多数あります。全長200メートル以上の前方後円墳は、西日本では京都、大阪、奈良、岡山、東日本では群馬にしかありません。また天神山古墳は、ヤマト王権の大王(おおきみ)の古墳と同じ設計図を使っていたと推定されています。このことから、当時、上毛野国とヤマト王権が密接につながっていたことがうかがえます。
中央集権を強力に進めるヤマト王権の意向もあり、7世紀に入ると前方後円墳は造られなくなりましたが、方墳や円墳などは造り続けられました。また仏教思想が浸透するにつれ、権威の象徴は古墳造りから寺院建築に移っていきました。
東日本最大の天神山古墳
群馬には、古墳時代などの歴史文化遺産が数多くあります。7月15日にグランドオープンした県立歴史博物館では、これらについて詳しく学ぶことができます。「東国古墳文化展示室」では、観音山古墳(高崎市)から出土した埴輪(はにわ)や豪華な金銅製馬具(こんどうせいばぐ)など、国の重要文化財275点を展示しています。
「東国古墳文化展示室」を案内する右島和夫館長
古墳時代に栄えた東国文化について、詳しく紹介します。