本文
文化財保護審議会 平成29年度第2回開催結果
1 日時
平成30年2月1日(木曜日)13時30分~16時00分
2 場所
群馬県庁第一特別会議室
3 出席者
戸所隆会長、村田敬一副会長、金澤好一委員、榊原悟委員、染川香澄委員、右島和夫委員、宮崎俊弥委員
4 事務局出席者
笠原寛教育長、古澤勝幸文化財保護課長、青木道則次長
文化財活用係:飯森康広係長、齋藤英敏指導主事、井野千春指導主事、橋本淳指導主事、小林正主幹、長谷川博幸指導主事、小堀高広指導主事
埋蔵文化財係:桜井美枝補佐(係長)
5 開会
13時30分文化財保護審議会の開会
6 挨拶
- 群馬県教育委員会教育長 主催者あいさつ
- 群馬県文化財保護審議会会長 会長あいさつ
7 議事録書名人選出
議長が今回の議事録書名人に宮崎・村田委員を指名。
8 傍聴人の報告
事務局が、マスコミ取材0社であることを報告。
9 傍聴制限確認
事務局から、部会報告と審議事項については非公開、その他については公開とする提案がなされ、委員に承認された。
10 内容
報告事項
- 平成29年度文化財保護課主要事業
- 文化財保護法改正について
- 文化財活用係の事業について
- 埋蔵文化財係の事業について
- 群馬県指定文化財の保存事業について
- 群馬県指定文化財の現状変更等について
- 国県指定等文化財数について
質疑
(質問なし)
(議長)以上で報告事項を終了する。これから審議事項に入るので非公開になる。
審議事項
(議長)では、教育委員会から諮問のあった指定文化財候補の審議に入りたい。まずは事務局から説明をお願いする。
(事務局)群馬県教育委員会より群馬県文化財保護審議会あてに、文化財の指定についての諮問があった。
- 旧入澤家住宅
- 近衛龍山公和歌一巻
これに対し、平成29年12月27日付けにて、群馬県文化財保護審議会より建造物・歴史資料各部会あてに調査の依頼を行った。
調査報告については、建造物・歴史資料各部会から報告を頂戴しており、その内容について事務局より説明する。
群馬県指定重要文化財の指定に係る調査及び報告について(回答)
平成29年12月27日付けで依頼のあった下記の群馬県指定文化財候補については、建造物専門部会において現地調査その他必要な調査を実施し、慎重に検討したところ、群馬県指定重要文化財の要件を満たす文化財的価値を有すると認められたので報告いたします。
名称 旧入澤家住宅
員数 1棟
所在場所 渋川市渋川1-1
所有者 個人
指定種別 重要文化財(建造物)
1)由来及び沿革
入澤氏は鎌倉幕府滅亡後、信濃国佐久郡入澤村に落ちのび地元豪族である村上氏に仕え、その後、天文13(1544)年3月、信濃を退去した入澤新八郎が、12名の従者とともに上州渋川に土着したとされる。南北朝時代に姓を入澤と改め、佐久市・渋川市に地名として残っている。
当建物は建築的特徴から17世紀初期に遡る県内屈指の古建築と推定されている。昭和54(1979)年に渋川市入澤から、渋川八幡宮境内に移築復原され現在に至り、神社関係者により大切に保存され、一般公開されている。渋川市指定重要文化財である。
2)構造
渋川八幡宮社務所の東側、池の北側に南面して位置する。入寄棟造平入の平家建てである。屋根は現在金属板葺であるが、建造当初は茅葺であり、棟を「クレグシ(芝棟)」としていた。
規模は、桁行20.951メートル(含左端土庇)、梁間9.915メートルである。
当建物は建造当初の形ではなく、「ヨリツキ」と「オクノマ」が増築された中古の姿で復原されている。1階平面は右勝手とし、正面右側を土間「ダイドコ」、左側を床上とする。「ザシキ」上手の正面側に「デイ」、背面側に「ナンド」、さらにその上手は増築部分であり、正面側に「ヨリツキ」、背面側に「オクノマ」を配している。
建築当初の平面形式は、土間寄りの大きな部屋である「ザシキ」とその上手の「デイ」「ナンド」の3室からなる広間型である。天井は、「ザシキ」「デイ」「ナンド」には設けられておらず、「ヨリツキ」「オクノマ」は棹縁天井である。
当建物は建築年代を直接示す棟札・古文書等を残していないが、当初は「広間型」であり、全体的に壁が多い、床の間や押入を設けていない、柱が蛤刃の釿仕上げ、小屋組の杈首組内部を土壁とし棟束を立てる、「ナンド」出入口を帳台構えとする、など古い民家建築にみられる建築手法を随所に用いている。このことから17世紀初期頃に建造されたと推定できる。
また、増築部分は、壁が多く開口部が少ない、床の間と床脇の奥行が浅い、等から17世紀末期~18世紀初期頃と推定できる。
3)指定理由
- 古民家建築に見られる特徴をもち、17世紀初期に遡る県内屈指の古建物である。
- 広間型に床の間と床脇を備えた接客空間を付加した平面であり、民家の発展過程を良く示している。
- 群馬県内では養蚕農家が多く残されているが、当建築はまだ養蚕を行っていない時期の建物である。
- 当地区のランドマークである渋川八幡宮境内に位置し、渋川八幡宮本殿(県指定重要文化財)の建造に関わった家系の住宅である。
旧入澤家住宅は、養蚕が盛んになる前の建築であり、古い近世民家の初期に見られる建築的特徴を備えている。この特徴は、県内で国重要文化財に指定されている民家建築にも見られないものである。また、当建築は中古での復原であり、民家における平面の発展過程を示すものとしても貴重である。旧入澤家住宅は歴史的価値及び学術的価値が高く、全国的に見ても数少ない江戸初期の民家建築と言える。
[指定基準]
群馬県指定重要文化財の指定基準第7号の(3)及び(4)に該当する。
第1 群馬県指定重要文化財の指定基準。7 建造物の部。
(3)歴史的価値の高いもの。(4)学術的価値の高いもの。
(議長)部会長に補足をお願いする。
(審議委員)なぜこの建物を指定するのかについて、最初に、群馬県の民家の文化財指定状況を見ると、養蚕農家が多いにもかかわらず、農家の指定が少ないという傾向があり、昨年度指定された「神保家住宅」が唯一となる。群馬県では民家指定は今まで無かったということになる。近代和風建築調査の結果では、約1200軒のうち約600軒が養蚕農家で圧倒的に多い。そういうことから、民家を今後やらなければならなくなる。
世界遺産でもある富岡製糸場・絹遺産群を支えていたのが農家である。ところが、江戸時代の農家が一つも指定されていない状況があり、せめてその中で、養蚕が行われる前の建物と、養蚕が行われている江戸時代の建物の2棟ぐらいは指定したいという考えがあった。もっと増やしたいが、現実的に残っていないというのがある。
そういう理由で、江戸時代における養蚕農家として「神保家住宅」が指定されているわけで、それ以前の建物ということで、今回、入澤家住宅が対象になった。
養蚕農家と一般的に言うが、養蚕農家も2種類あり、島村農法、いわゆる蚕種製造農家と、一般の繭生産農家では、造りも違い、飼育温度等も違うということで、今後の展開は、そのあたりをどうしていくかという事になるかと思う。
先程事務局が説明したが、渋川八幡宮の本殿は県指定だ。拝殿は明治のものであり、県内で年代が分かっている中では最古級に属するものである。この脇に本殿建造碑があり、入澤家がこの建物を建てたということが書かれている。入澤家と渋川八幡宮宮司が姻戚関係になり、境内地に移転させたといういきさつがある。もともと、渋川工業高校敷地内まで渋川八幡宮の境内だった。
旧入澤家住宅の内観は、一見して分かるように非常に壁が多い。古い建物の特徴である。日本の二階建ての農家というのは、基本的に養蚕のために作っているので、全国的に見ても1700年代中頃以後でないと農家の二階建ては出てこない。旧入澤家住宅は、1600年代初めの建造であるので、当然平屋だ。
屋根は、現在瓦銅葺きのトタンになっているが、当初は草葺きだ。これは「クレグシ」といい、屋根のムネの上に草を生えさせる様式である。宿根草といわれているシャガとかイワシバ、食べるニラなどがある。流派には、基本的に越後流、高田流がある。群馬県では、太田の方へ行くとこういった納めではなく、竹で押さえる形になっており、会津流とか筑波流と言っている。群馬県全域がほとんどこのクレグシでおおわれている。田圃にあるクレ、隣の田との間にあるクレに芝が生えるということで、グシというのは群馬県ではムネのことを言うので、全国的には「シバムネ」と言う。現在は、傷んできたので上に鉄板をかぶせてある状況だ。
平面的にはザシキが広間で奧に寝る所と、客間がある。そして、土間がある形式で広間型といわれている。1600年代の初めに建てられ、後ほどヨリツキとオクノマ、いわゆるザシキ、接客空間を増築し充実した形である。最終的には増築した形で復原をされている。
日本の民家の発展は基本的には、一間からはじまって、その次に広間ができて、寝るところが出来て、ザシキが出来るというような形である。このことを「広間型」、「三間取り」と言う。
さらに、食事をしたり接客をしたり、来客があると玄関から入るので、気恥ずかしいという事があり、ここに間仕切りを作るようになる。そんな形で、食事をする居間であったり、寝る所、準客間、実際ここで宴会等行われるが、これが「田の字型」で、関西で1600年代の末あたりから発生すると、関東では50年くらい遅れて普及した。群馬県ではそれが更に遅れて1700年代の初め位まで広間型が見られる。1700年代の後半になり、ほとんどが田の字型に展開する。地域によって差もあるが、大きくはそのような流れがある。
群馬県では「赤城型」という2階を作って換気をするためにちょっと屋根の手前を欠いた形をアナビサシなどというが、引っ込んだ形が赤城型、突き出した形が榛名型、さらにはマエカブト、ツマカブトなどがある。旧入澤家住宅の様式は、平屋だから当然、要は養蚕が行われる前の形なのである。養蚕をやるために2階が出来て、群馬県の民家といえば赤城型、榛名型が有名なのだが、残念ながら幕末ころの建造が多い。我々の研究結果では1700年代半ばの物は見当たらない、壊してしまって残っていない。そういう意味で、群馬県では昆虫の森の中と、前橋の大室公園に養蚕建築が2棟指定になっているので、それ以前の建築を今回対象にしたということになる。
これが土庇ということで、縁側にあたる部分、縁を作らないで土間になっているということで、南から西側に回ってみると、裏にも入り口がなく、非常に密閉されている形だ。
これが帳台構えだが、高くした敷居があり、この高さが高くなるほど年代が古くなる。ここの部分が扠首組、縦の棒がいらないのだ。トラスでいいのだが、古くなるとここに束を入れてここを土壁に埋めているという事だ。
当初できた段階では、床の間とかは無い。時代が100年位後になって出来た物については床の間がある。床の間の奥行きは幕末から昭和30年代までが奥行きが3尺になる。遡って元禄頃で1尺2寸ぐらい。ほぼ時代経過に比例している。これも3尺ない。1尺ちょっとという事になる。
土壁に扠首組に棟束を建てて内部を土壁にする。納戸を帳台構えにするというのがある。ヨリツキの部分も17世紀まで遡るのは無い。非常に重要なので、途中の過程を復原した。元々客間が無いのに、客間を作ったということに意味がある。この柱の断面を上屋と言い、実際に屋根を支えている。時代が変わるとこの上屋の柱が外に出てくる。ここに大きな梁を入れられればいらない。小さな家の場合には下屋柱ということで、さらにメインの部分のスパンが少ないということで、上屋柱、下屋柱で全体を構成している。ザシキの所から寝るところが上がっているということだ。
もう一つは土間から入っていった時に、柱がある。先程言った上屋柱になる。これがあると邪魔だ。入りながらなんとなく袖をするので、建築史の中では「袖摺柱」と言う。奧にはカマドを置くのだが、カマドの近くに対象形に柱がある。「釜柱」という言い方をする。時代が後になるとこの部分が取れてくる。立体的、平面的に見ても古い手法を使っている。
ここの柱間、柱と柱の間の寸法は2間、8畳だ。幕末が12尺ジャストである。それからだんだん広くなっていって、1650年位まで遡ることになって、個人的なデータであるが、こういう傾向がある。奥行きの部分は12.15尺。こんな物も年代判定には使っている。事務局が説明してくれたように、県内でも屈指の古建築である。国指定を入れても古いレベルにある建物だと思う。書院造りの構成要素である、「床の間」と「床脇」を備えた接客空間を付加した、民家の発展過程を示している。天井も無い。増築分は棹縁天井で、客間的にやっている。群馬県内では養蚕農家が非常に評価されているので、養蚕農家としての指定は、国史跡としてなされている訳であるが、この建物についてはそれ以前のものを物語っているということで貴重であろう。渋川八幡宮の本殿を造った当主が造っているという歴史的価値もある。以上4点から十分該当するのではないかということで審議していただきたい。
(議長)ただいま旧入澤家住宅について説明があったが、何か質問・意見はあるか。
(審議委員)所有は渋川八幡ということか。
(審議委員)そうである。
(事務局)より正確に言えば、宮司の個人所有である。
(審議委員)非常に初期の古い建物だと思う。中古の姿で復元、17世紀終わりぐらいに改築したということについて、その根拠を教えてほしい。
それから、この建物が残った大きな理由は、農家というよりは八幡宮との関係で、神官か何かやっていたか、あるいは、農家でも床の間があったり、上の階層、そういう人の家だったと思うのだが、農家建築について詳しく話してほしい。
養蚕の痕跡がなかったのかどうか。養蚕の視点から言うと、その前の非常に貴重だと思うが、ずっと、やらないで来たという農家で、養蚕が行われなかったというのはなぜか、建築として残ってきた理由、単なる「農家」と言えるのかどうかについても教えてほしい。
それから、言葉なのだが、私は吾妻郡の農家の出身だが、クレと言わないでクロという。
(審議委員)クレとクロは同じ。
(審議委員)地域の言葉として、疑問だった。
(審議委員)民家の年代判定は1棟でやっているが、実はそうではなくて、何十棟で編年表を作っている。柱が蛤刃で丸刃なのだ。皆さん御存じのように、釿というのは基本的には並行にでてくる。元禄ぐらいになると、1600年代になると丸い形になる。それも一つの年代判定である。
玄関が入った正面側が恥ずかしいものだから鉋がけする。一番古いのは4面とも丸形のチョウナ型が出る。次が平刃になる。その次は併用で奧の2面玄関から入ると南側と東側、土間側だけが鉋がけがあったり、下だけを鉋にして上だけを残す。積善館などは正にそういう形なのであるが、建造年代を判断する項目が2~30ある。それを例えば10棟あれば全部並べて表を作って、年代が分かっている物を当てはめてやっていく。最後の年代判定する時は、写真を全部並べてやりとりをするというのが、昭和30年代の始めに確立した、「編年法」である。
先程の増築の根拠はというと、デイの所の柱のこちら側を見ると、そこが全部風化しているのだ。風化というのはスギの柱で分かるように木の目が出てくる。木目が出てきて、明らかに外だったということが分かる。ここに建具が入っていると、柱の半分、奧の方が風化していないで、つるつるになる。南側に来るとざらざらしている。風化のことであるとか、もろもろの柱の仕上げであるとか、柱の樹種により判断する。ケヤキであるとか雑木を使っている。新しくなってくるとスギ、ヒノキは民家では使わないので、樹種も考慮した上で20から30の項目で位置づけている。
先程紹介した寸法なども含めて加味している。総合的に判断しているというのが1点目だ。2点目は、神官の家と言うが、元々、入沢(地名)の入澤(家名)なのだ。殿様の家で、庄屋的なことで地名にもなっている。なぜ今八幡宮に行ったかというと、そのうちの何代目かの当主、今の宮司さんのお父さんが、入澤家に婿に入って神官になった。そんな関係があって、家を壊す話が本家で出たので、出自の家の古建築なので何とか保存したいということで、我々が相談を受けて移築をしたという経緯がある。もともと神官ではなくて、いわゆる農家だった。
もう一つは疑問だと思うが、もともと昔の武士レベルの方が帰農した時どうしたかというと、基本的には全く農家造りの家で暮らした。小栗上野介の家が総社地区に移築されている。小栗上野介が幕末に造った建物は全く農家造り。養蚕農家そのものなのである。基本的には、積善館なども1階は全く農家造りである。例えば寺の庫裏もそうであり、今改修をかけている妙義神社の社務所(庫裏)に相当する部分も、全部農家造りの間取りで、3間取りでいくか4間取りでいくかといったようなことがうかがえる。
3番目は実は、これは、きれいになっているが、我々が調査した時は全然そうじゃなかった。その後増築もどんどんされていて、お蚕もずっとやっていた。当然やっている。具体的に、養蚕は1700年の始めから飼っていると思うけれど、建物としての影響が本格的に出てくるのは50年たった後じゃないかと我々は基本的にみている。
あとクロとクレ、私も玉村でクロといっていた。でも言う時はクログシとは言わない。クレグシという。全国的には分かりにくいのでシバムネという。昭和52年に東京教育大学の亘理先生が調べた結果によると47都道府県で一番残っているのは群馬県であった。シャガとかユリとか宿根草と言われているもので根を張らせていって枯れないということで使われている。道ばたにある芝土を掘ってきてシャベルで置けばいい。決まっていて1種類でやる場合もあるが、前橋で圧倒的に多かったのはシャガだ。シャガは江戸時代に中国から入って来た物だから、実際にもっと前は違うのではないか。イワヒバなどが多い。
(審議委員)それは宗教的な意味で土を上に上げるのか。
(審議委員)防水のための棟仕舞である。屋根でこうやってると上が開いてしまう。手前で留めるため。そこに丸の茅を束ねた物を乗せる。それだけでは雨が漏るので1メートル位下がった所に斜めに直角に45度45度で15センチメートル位出す。そこにスギ皮を敷き、泥を敷く。その上に植えていく。
(審議委員)ありがとうございます。
(議長)先程クロといわれたもの、私も子供の頃クロヌリと言った。クレって言っている地域があるというが、私は前橋だが、群馬県内にあるのか。
(審議委員)ある。前橋、高崎はほとんどクロである。
(議長)他にあるか。
(審議委員)昭和54年に移築されたと書かれているが、移築の過程の記録はしっかり残っているのか。あるいは移築前の状況というのは、あるのか。
(審議委員)残っている。群馬県が、今国指定になっている富沢家住宅、茂木家であるとか戸部家とか黒澤家を調査した時、国で民家緊急調査というのをやった。その中で入澤柳太郎家ということで調査もされて、そのレベルということだが国指定にはならなかった。そういういきさつもある。なので、当時の痕跡図も残っており、我々も移築の際、再確認しているし、やった過程は移築した次年、学会で説明し桑原先生が論文を発表し建物の解説を2人でやって、建築学会の論文にも残っている。過程は全て、昔の状況、写真も全て残っている。
(審議委員)分かった。
(議長)他にあるか。私の方から聞きたいのが、この建築はまだ養蚕を行っていない時期の建物とのことだが、確実に養蚕を行っていないのか。要するに建物として、どこかでやっているかもしれない。養蚕農家が出てくる前のものであるという表現で大丈夫なのかなというのが質問の第1点、いかがだろうか。
(審議委員)議長のいうとおりである。養蚕を反映した建築ではない、の方がいいかもしれない。実際、養蚕の指導書というのが、百いくつも知られているけれども、だいたい寛政頃だ。当然そういうことでは、多分やっていないという事は証明できないから、建築的に養蚕を反映していないとしたほうがいいだろう。訂正する。
(議長)もう1点は、全国的な見解を見た時に群馬県としてどういう意味をなすのか。一言あるといいかなということで、どうだろうか。
(審議委員)国指定のレベルでなっているのが7棟あるのだが、それの中で旧入澤家住宅に太刀打ちできるのは茂木家くらいだ。これが大永年間の墨書があるというのだが、実際の復原等は江戸中期でやっている。そういう意味で実質的に一番古いものである。ということで全国的に見ても一番古い部類のところに入ってくると思う。今回も私と一緒に調べてもらった専門委員は、まだこんなものが残っていたのかということで見てもらっている。実際は全国的に見ても古い部類に入る。日本では民家では箱木千年屋というのが中世の物が1棟あるくらいで、基本的には中世の建物はほとんど無い。その次の部類に入ってくる。
(議長)ありがとうございました。他にいかがですか。
それでは、この旧入澤家住宅について指定することが適当であると答申してもよろしいでしょうか。
では、そのようにさせていただきたいと思います。
(事務局)ありがとうございました。
つづきまして、近衛龍山公和歌一巻について報告説明をいたします。
(事務局)名称については内容を正確に示すために修正をした。指定種別については、歴史上の学術的価値が高いことから、歴史資料としての指定基準ということで変更をした。詳細について説明をする。
名称 近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌
員数 1巻
所在場所 光泉寺(吾妻郡草津町草津甲446番地)
所有者 光泉寺
概要
1)由来及び沿革
本指定候補は、草津町の真言宗豊山派光泉寺に伝来したものである。近衛前久は、公家の名門近衛家に天文5年(1536)に生まれ、関白、太政大臣を歴任した。上杉謙信と盟約を結んで永禄4年(1561)関東に下り、天正3年(1575)以降は織田信長と親交を深め、その意を受けて石山本願寺との講和に貢献した。天正10年(1582)、信長の死後落飾し龍山と号した。その後も豊臣秀吉とは、その関白就任にあたって自分の猶子とするなどの関係を取り結び、公家でありながら武家社会に身を投じた人物であった。また、和歌、連歌に優れ、書をよくし、有職故実、馬術、放鷹などにも精通し、当代一流の文化人であった。天正15年(1587)、湯治のため草津温泉を訪れ、現在の光泉寺本堂の位置にかつてあった薬師堂において、本尊の薬師瑠璃光如来法楽のため和歌を詠み、奉納したものが今回の指定候補である和歌一巻である。近衛龍山と交流のあった京都吉田神道家の吉田兼見の日記『兼見卿記』に、天正15年3月30日に近衛龍山が草津湯治のため京を発ったことが記されており、史料的な裏付けが確認できる。今回、専門家による筆跡・紙材の鑑定の結果、真筆であることが判明している。
この専門家であるが、歴史資料部会の臨時専門委員として、東京大学史料編纂所名誉教授橋本正宣臨時委員に見てもらい、鑑定してもらったという経緯がある。
2)内容
縦35.7センチメートル、横144.3センチメートル楮紙3枚を貼り継ぎ、一巻とする。巻首に「草津湯治之中、於薬師堂、彼本尊之名号を句のかみにすへて、法楽のために十首の歌をよみけり」との詞書があり、「なむやくししうにしむ(南無薬師十二神)」を歌の頭に冠した十首の巻子本 一巻である。天正15年5月8日の日付がある。十首のうち、特に最後の一首は、「むすふてふこの谷かけの出湯こそむへも老せぬくすり成けれ」と詠まれ、草津温泉が安土桃山時代においてすでに不老長寿の湯として広く知られていたことを示すものである。
3)種類と数量 巻子本一巻
4)指定理由 本指定候補は、関白、太政大臣を歴任し、当代一流の文化人でもあった近衛龍山が、湯治のため京都から遠く草津温泉を訪れたことを示すものであり、能書家としての龍山の書風を能くうかがわせる優品である。年紀の明記があることも貴重である。歌の内容も当地にとってかけがえのないものであり、特に最後の一首は、群馬県が誇る草津温泉を見事に寿ぐ和歌として注目すべきものである。草津温泉の歴史や、安土桃山時代の中央と地方との文化交流を示す非常に価値が高い資料であり、指定するに十分な文化史上及び歴史上の学術的価値を有している資料である。
[指定基準]
群馬県指定重要文化財の指定基準第3号の(1)及び第6号の(1)に該当する。
第1 群馬県指定重要文化財の指定基準
3 書跡、典籍の部(1)書跡類は、宸翰、和漢名家筆跡、古筆、墨跡、法帖等で、群馬県の書道史上の代表と認められるもの又は群馬県の文化史上貴重なもの
6 歴史資料の部(1)政治、経済、社会、文化等群馬県の歴史上の各分野における重要な事象に関する遺品のうち学術的価値の特に高いもの
(議長)部会長に補足をお願いする。
(審議委員)今回の文化財候補なのだが、和歌の1巻である。写真を中心に説明をして、次に価値ついて説明したい。
本白根の噴火で話題になっている草津町にある光泉寺に所蔵されている文化財である。11ページの地図の写真だが、〇が光泉寺の位置だが、その右上にずっといって湯畑がある。その湯畑の西側、西南の方向にあって、湯畑から階段を上ると山門があり、その奥が本堂で、旧薬師堂だ。
13ページ以後が指定の候補の和歌の巻子本だ。コウゾ紙をいくつか貼り合わせて軸に巻く巻物形式で、文化財では巻子本という。これが、1巻、一つが指定の対象となる。横が1メートル44センチメートル、縦が36.7センチメートルのそんなに大きなものではないが、中身が価値があるものだ。13ページ下が巻首、14ページが中央の部分、下が巻末ということで大きく3つの写真でここに掲げておいた。
今日配られた資料に、和歌の現代語で活字にしたものが載っている。これも参考にしてほしい。巻首の所が釈文の行、龍山書いた本人の名前も入っている。「なむやくししうにしむ」とあるが、南無薬師十二神の事だ。濁点は昔は入れないから、「なむやくししうにしむ」の十文字を和歌のそれぞれのトップに、「な」だったら、「名もしらむ~」、「む」だったら、「村雨の~」、こういうふうに凝って龍山らしい、龍山の書の特徴、名号を和歌の上のトップにもっていくと、非常に難しい技をやっている。十首ある。最後が、「ゆによせていわう」と読むのだが、タイトルを付けて和歌を詠む、これが草津温泉にどんぴしゃの句だったというので、注目をしている。「むすふてふ~」、この「むすぶ」というのが、「掬」という、東大の名誉教授、鑑定をしてくれた橋本先生が、こういうふうにあててくれた。橋本先生は公家文書の代表的な研究者で、東大資料編纂所の職員だった。今、福井県で神官をやっている。非常に学術的に知見の高い方である。
「むすふてふ このたにかけの 出湯こそ むへも老せぬ くすり成けれ」手で掬ってみる。このたにかげの出湯、これが草津温泉です。谷陰からわき出ている湯こそ、確かに不老長寿の薬なんだな。こういう意味である。
現在上毛かるたに、「草津よいとこ薬のいでゆ」、と詠まれている。この元になっていると私は思っているのだが、この歌が表しているということで注目できると思う。
最後の天正15年5月8日も大事だ。きちっと年号日付けまで、はっきりしている点が、非常に大事。最初の釈文、詞書、前置き、これも近衛龍山が草津にやってきたということを証明している詞書である。
「草津湯治之中 於薬師堂 彼本尊之名号を句のかミにすへて、法楽のために十首の 歌を詠みけり 龍山」 仏様に歌を詠んで捧げることを法楽と言う。そういう趣旨で十首を詠んだのだということで、和歌が出来たのだといういきさつを、最初の詞書きと最後の和歌、これで近衛龍山が草津にやってきて、湯を寿ぐ、非常にめでたいということで詠んだということが証明できると思う。
次、補足なのだが、近衛龍山について先程の10ページの由来、沿革のところに、一行目に前久これが本名、後に出家してから、龍山と呼ぶようになっている。
この人だが、京都の公家の代表人物で五摂家というのがある。五つの摂政関白を務めることの出来るトップクラスの公家の筆頭が近衛家で、その時の当主が近衛龍山である。公家の中でも一流の公家であったということである。
この人は文化人で、今回の指定理由の一つは近衛龍山の書であるということがある。当時一流の書家である、その実筆の書であるということ。書家であり、有職故実に詳しい、宮廷、朝廷の慣習、色々な行事にくわしいということ。あと、馬術とか放鷹、昔の公家はこういうこともやっていたということ。一流の文化人であったということ。
もう一つただそれだけではなくて、彼は公家で有りながら政治家的な活動をしたことで日本史では有名だ。室町幕府の十五代将軍義昭から信長、秀吉その中でかなり重要な役割を担って政治的な動きをした人だ。信長では石山本願寺、宗教勢力と信長は激しく対立したのだが、石山本願寺が信長に跪いてくるときに、その間を取り持ったのが近衛龍山である。
秀吉との関係でいうと、色々あるのだが、秀吉は関白ということで有名で、農民から出世して関白まで上りつめたということだが、関白に就任するには家柄が必要で、近衛龍山は秀吉を養子にしたのだ。それで秀吉は関白になれたということで非常に大きな役割というか、その人が草津にやってきたというのが、今回の文化財候補の大きな価値になっている。
2点目の補足なのだが、近衛龍山がやってきたというもう一つの裏付けが、吉田兼見の日記『兼見卿記』、安土桃山時代、京都の一番大きな勢力を持っていた吉田神道の当主だ。これが書いた日記に5箇所にわたって近衛龍山が草津に湯治に出かけたということで出てくる。そういうことで、この吉田兼見についてなのだが、なぜ近衛龍山のことを日記に残しているのかということなだが、龍山と等しく当時一流の神主だった。五摂家を代表する龍山と親しく付き合っていて、近衛家の家令をやっていたということで、家の政務を任せられていた。龍山が草津にやってくるに当たって留守を任せられていたということがあった。それで草津湯治の事がたくさん出てくる。
先程の橋本先生の解釈なのだが、天正15年3月30日に出発している。5月8日に歌を詠んだ1ヶ月以上前から京都を出発している。旧暦の3月31日というと4月の終わりから5月のちょうど気候が良くなって、草津は冬住みというので明治の初め位までは、冬は六合村に全部移ってしまう。閉じている。そして春になって4月8日から薬師寺の縁日からはじまって、湯を開く。そして、さっきの歌を詠んだ。これが吉田兼見の兼見卿記にでてくるということで、近衛龍山が草津に来たという一つの証明になるということだ。
それから薬師信仰というのは、薬師如来。当時神仏習合で神様的にも扱われた。病気を治す仏様、薬の仏様でもある。病気の治癒、延命、薬、それを全部薬師如来が担うわけだが、そいうことで温泉には非常にふさわしい薬師信仰である。
そういう事もあって、草津で早くから薬師信仰があったと思う。そこに薬師堂があって、そこでさっき言った法楽、和歌を献じたということ。十二神は薬師如来を守るというか、よく仏様には四天王というのがあるが、それと同じように薬師如来を守る従者、ついている仏様だと思う。十二神将の略。このネーミングの方が文化財には難しいが、非常に具体的で正確だろうということで、前回の物件の名前を今回橋本先生のアドバイスによって変えたということになる。
最後は光泉寺なのだが、今は本殿は薬師如来、薬師堂になっているのだが、元々は少し離れたところにあったみたいだ。去年の6月に資料部会の委員達全員で現地調査に行ってきた。その時に場所等も確認したのだが、明治になって火事で消失して、前は草津の図書館の駐車場にあったそうだ。
建物は非常に新しいが、如来堂は前からあった。如来堂を江戸時代から光泉寺が管理してきたそうだ。そこで如来堂の近くに移ったと認識している。
お寺は奈良時代に行基が作ったという説があるが、私は鎌倉時代の初期に出来たのではないかと推定する。寺自体は建物は新しい物ではない。寺の歴史は古いと見ていいと思う。最後は余分なのだが、今回本白根が噴火爆発した。この指定が草津の人たちを、勇気づけられればいいと個人的な感想を交えて一言触れさせてもらった。
(議長)どうもありがとうございました。質問等意見あればお願いします。
(審議委員)付け加える。価値というか指定理由なのだが、2つ簡単に言う。一つは近衛龍山の一流の書であるということ。書蹟。もう一つは資料としての価値なのだが、近衛龍山という京都で非常に日本史でも有名な人物が、草津にこの頃やってきた。中央と地方の温泉との関係、交流を示した歴史的な価値があるということで、歴史資料の価値ということで2つ載せた。
(議長)ありがとうございました。いかがですか。
(審議委員)今説明を聞いていて、とても楽しかったのだが、指定とは直接関係ない次のステップかもしれないが、素人でもすごいなと思えるような紹介の仕方がされると、素晴らしいだろうなと思った。
(議長)湯畑の国名勝指定に際して、先年、「草津町の名勝に関する特定の調査報告書」調査指導委員会において、審議委員と一緒に、中央、京都との関係とか、六合村との関係とか含めて、調査・議論したことがある。この資料が指定される、分かりやすく流布されると、今の草津温泉の温泉街の順位付けや観光地・湯治場として評価の高いことに関しても、歴史的な裏付けが出来るという感じがしている。
(審議委員)光泉寺は旅館の建築の玄関の方そっくり使ったもので、私の記憶では階段を上がっていった右側に薬師堂があった。今はどうか。
(審議委員)真正面に薬師堂、右は釈迦堂。歴史的な価値が古い、草津町の指定文化財。
(審議委員)ちょっと今思ったのは、薬師堂に納めてある。今は寺が持っているのか。
(審議委員)多分薬師堂にあったのだと思う。今の光泉寺本堂の所にかつては薬師堂があった。江戸時代の絵図等に描かれている。かなり大きな建物だったらしいのだが、それが明治22年に消失をしてしまったと。そこで、それを管理していた元々の光泉寺の薬師堂の所に当初は移築し、それが最近になって現在の鉄筋コンクリート製のお堂に建て直されたそうだ。
この十首和歌については古い薬師堂の時に、この和歌を額に、木に墨書したかは、その辺分からないのだが、そういった形で寺も由緒ある大切なものだということで掲げておいたらしいのだが、それが火災の時に一緒に消失してしまったことが草津温泉史に書かれている。
この原本の方がどういう形で保管されていたのかは分からないのだが、薬師堂、もしくは隣接していた光泉寺の方で管理をしていたのではないかという推測の域だが、そんな経緯がある。
(審議委員)薬師堂は審議委員が説明したように関連性が出てくるので、草津にとってものすごくいい資料だ。新しい所になるのだが、その過程があって、薬師堂だという所を含めての最終的に提示する時には、説明がちゃんとあった方が分かりがいいのかなという気がした。指定に関しては大賛成だ。
(審議委員)直接というよりは、エリアとしての指定もあったり、今回草津温泉を語る上でも非常に重要な資料になってくるかと思うのだが、先程最初に事務局の方で文化財保護法の、より良い方法でという意味での改正というような中で、草津温泉などは使いながら価値を更に定めていくという非常に色々な要素が成っているわけだが、それについては草津町なり群馬県のための将来設計というか、例えば資料館とか、この歴史的価値だったり、長い意味でも今後に向けて拠点作りというか、予定はあるのだろうか。
(事務局)現在のところ特に文化財の所蔵とか公開施設を、町の方で、準備をすることは検討は始まっていない現状だ。光泉寺についても、草津温泉には代々著名人が、文化人もそうだし、政治家もそうだし、そういった人々が湯治に訪れている。もしかすると光泉寺にも他にもこういった歴史的価値のある資料が、世に出ていない資料があるかもしれない。草津町内の他の所にも、そういう物があるかもしれない。先程言った地域計画を作る時に、特に規模の小さい所には、県が積極的に関わるようにし、その中でまた相談をしていきたいと思っている。草津に限らず、史跡もあれば建造物もあれば美術工芸品もあるし、各地域の特徴をうまく残せるような地域計画づくりに、県としても積極的に関わっていかなければいけないと感じている。
(議長)今後の課題として。
近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌1巻を指定することでよろしいでしょうか。全員一致ということで、ありがとうございました。
旧入澤家住宅、近衛龍山詠薬師十二神法楽十首和歌1巻を答申させていただきます。最後に御審議いただきました意見について教育委員会への答申案を事務局からお配りいたします。
(事務局)(答申案読み上げ)
(議長)細かい文言につきましては、審議会長に一任をお願いいたしたい。よろしければ2月の教育委員会会議に答申いたします。よろしいでしょうか。
では、そのようにさせていただきたいと思います。
続きまして2、平成30年度文化財保護課の取り組みにつきまして事務局より提案をお願いいたします。
(事務局)先ほど教育長よりあったが、平成30年度の当初予算は、今日知事から方針が発表されて、この後議会の議決を経る形になる。当課で希望している事業の取り組みについて説明をしたいと思う。
地域に伝わる有形無形の文化財の保護として、当審議会の運営や、文化財パトロール等の実施、県事業として特別天然記念物カモシカの調査、銃砲刀剣類の登録システムの運用等を実施していきたいと思っている。各市町村が実施する文化財保存事業への補助の予算獲得を頑張っているところだ。
二つ目として、郷土の歴史の理解と関心の向上ということで、古墳情報の発信これは継続して実施していきたいと思っている。観音山古墳、上野国分寺跡の保存管理活用、特に国分寺については、調査が終わり報告書が出て次のステップに向けた取り組みを進めていければと思っている。
次が統合型GISでの遺跡文化財情報の提供、ふるさと群馬のたからもの絵のコンクールの継続。最後が歴史の道活用推進事業ということで、平成9~10年度に県の教育委員会で江戸時代の県内を通っていた街道14を調査して報告書にしたり一般の方に活用していただくマップを作った。いまスマホが発達しているが、それとは別に紙を持って歩きたいという要望が非常に多く寄せられているので、リニューアルをしていきたいと希望している。
三つ目が埋蔵文化財の調査、保存及び調査成果の活用、基幹幹線である上信道であるとか八ツ場ダムに関わる発掘調査。特に八ツ場ダムに関しては平成31年度末の完成ということで発掘調査の方も今年度非常に大きな山を迎える。これらの調整を実施していきたいと思っている。
その他開発関連の埋蔵文化財の試掘調査、埋蔵文化財調査センターの運営、出土遺物の保存管理、そして普及活用を進めていきたいと思っている。
それから最後、古墳学習プログラムだが、せっかく古墳総合調査を実施したので、子供たちが古墳を見学する前にぜひこういったことを学校の方でもやっておいてもらいたい。それは学術的な面もあるのだが、自分の身体、手、足、目を使って事前に身の回りの物を、よく観察をし、古墳に行った時にそれとどう違うのか比較をしたり、同じ所を見つけたり、ちょっと変わった目新しいプログラムが出来ればいいなと考え今調整をしているところだ。
県内の文化財のしっかりした保存活用、文化財保護行政が大きく転換をする大きな年になってくると思いうので、それに向けて課員一同しっかり取り組んでいきたいと思っている。
(議長)今事務局の方から取り組みについて説明があったが何か質問意見があれば、お願いいたします。
(審議委員)先程報告であった古墳を回る時のアプリは、いま報告であった、1番の2番の絵と関係あるのか。
(事務局)古墳を訪問する際に活用出来るアプリは、現在作成中で、3月の末にはチラシ等作って広報をしていきたいと思っている。それは学校単位で見学するとかそういう事でなく、子供から大人まで古墳を楽しんでもらいたい。実際に現地に行って見てもらったり、周遊を促すために今考えているのは、スタンプを集めて全部回ると、ちょっとした記念品をもらえたりということで、多くの人に行ってもらおうという、そういう取り組みになる。
それから今説明した古墳学習プログラム。これは県のホームページに、埋蔵文化財の包蔵地だとか文化財の位置情報だとか、そういったものが統合型GISということでアップされている。所管課が情報政策課という所なのだが、そこと連携を図りながら使いやすいような形にしていくというようなことになる。
それから更に今年になって発行した古墳総合踏査の報告書を、いまデータ化をしていて、データベースを作っていてそれをここに載せて、文化財情報、地図情報、古墳の色々なデータ情報そういったものを一元的に提供して活用してもらおうという取り組みになる。
(審議委員)研究にも役に立つということか。ちょっと気になったのが、私が元々京都で関西なので群馬を全然知らないで育ったというのもあるのだが、こちらで、歴史博物館とか色々な所で古墳の話とか聞かせてもらいながら、いまだに自分で地図上に描けなかったりとか、人に説明する時になかなか上手く伝えられない。研究向けでもあるし、色々な物をつなげていく中で、外国人対応がどうなっているのかなというのが少し気になっている。
この前も沖縄に行った時、ホテルの部屋の中の案内が十カ国語で書いてあって驚いたのだが、十カ国語にしたらいいのかという問題ではなくて、古墳て何なのというのからはじまってビジュアルでも、読まなくても分かったりとか、最初のつかみがとても大事だと思うので、入り口の所をぜひ力を入れてもらえたらなと思うのと、インバウンド、訪日外国人関係の事では助成金とかもあるので、ぜひそういう外部ブレーンも入れながら入り口の所でも分かりやすくしてもらえたらなと思う。
(議長)今のインバウンドの関係でよく言われるのは、外国人来訪者と上手くやると分かりやすくするために外国人から協力してくれる人たちが出てくるということだ。改めて頼むと高価になるが、ネイティブからみると、その辺もボランティアでやってくれる方達も出てきている。そこは県の方でも色々探ってもらうと新しい道が出てくるかなと思う。他にいかがでしょうか。
(審議委員)15ページの郷土の歴史の理解の向上、歴史の道の活用促進事業があるが、8冊刊行というのは前のものをそのまま復刻するのだろうか。
(事務局)これは全部で15冊からなっている物だ。うち1冊が総論編というのがあって、その他に14の街道、中山道、三国街道からはじまって会津の方へ行く道もある。ところが、もう20年近く前の物なので、その後道路状況が変わっていたり施設が変わっていたり、文化財も新たに指定したものがあるので、それを2カ年間に分けて、まず8冊を最新の情報にリニューアルして、必要な手直しを加えた物を作成し、翌年残りをやる。更に3年目はそれを発展させたような取り組みをしていきたいと考えている。
(議長)他にあるか。
(審議委員)20年よりもっと前だと思うのだが、私は持っている。なかなか街道を歩くのにはいい資料だから、こういう取り組みは地域への愛情を育むのにいい資料だと思う。
(議長)ありがとうございました。古墳学習プログラム作成、古墳だけでなく文化財全体に関して、私自身現代の町づくりとか開発に関わった時に非常に感じるのは、文化財の保護と活用、歴史的なものに景観を含めて関心を示し、受け入れてもらえる人たちは、小学校の時から一定の教育を受けている人たちで、教育を受けていない人たちにはなかなか理解してもらえない。やはり子供の時に文化財などに触れ、こういうものが重要なんだということを子供の頃から認識して、そこで得た物は大人になって実際に開発に携わった時に、生きてくる。
自分から勉強してみるというのは小学校、中学校、特に小学校の教育は大切で、それを書いてもらったのは教育委員会として非常に良いと理解している。その上で益々それを推進してもらうことが現代のまちづくり・開発に際しても重要なのかなということを現場で感じる事がある。子供の頃から文化財や歴史に関心の無かった人は経済優先で事を進めてしまう傾向がどうもあるようだ。そういった面で子供の教育は重要で、しっかりやっていただけたらありがたいなと思う。
11 閉会
16時00分 文化財保護審議会の閉会