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史跡上野国分寺跡の発掘調査について
発掘調査・史跡整備の経過
これまでの発掘調査(第1期)
県教育委員会では、昭和48年(1973)から史跡上野国分寺跡の本格的な保存・整備に着手し(平成6年(1994)まで)、昭和55年(1980)から63年度(1988)にかけて発掘調査を実施しました。南辺築垣と南大門跡及び金堂跡と塔跡を中心に、寺域全体に広範囲に試掘坑(トレンチ)を設定し、史跡指定地の約19.3パーセントにあたる面積を発掘調査しました。
史跡整備
上記の発掘調査の結果を踏まえ、県教育委員会では、史跡上野国分寺跡を恒久的に保護・保存し、県民の皆様に広くわかりやすく公開し、史跡への理解をより深めてもらうことを目的として史跡整備事業を計画し、昭和63年(1988)2月に「史跡上野国分寺跡整備基本設計書」を作成しました。このときに予定された事業の柱は、次の4点です。
- 塔と金堂基壇の「復原修理」を行い、古代の景観を再現する。
- 国分寺の正面である南大門と南辺築垣の復原を行い、古代の景観を再現する。
- 史跡指定地の南端に見学者用のガイダンス施設を建設する。
- 史跡指定地南西部を地形復原し、史跡の見学環境を整える。
県教育委員会では、平成2年度(1990)以降、本格的な史跡整備に着手し、平成5年度(1993)にかけて塔及び金堂基壇、築垣の一部、部分的な地形復元、そしてガイダンス施設建設や築垣周辺整備を実施しました。平成22年度(2010)には、史跡の活用促進を図るため、史跡の南側に進入路と駐車場を整備しました。ただし、南大門及び築垣の一部、金堂周辺、残りの地形復元などは、用地未解決等の理由により未整備のままとなっていました。
今回の発掘調査(第2期)
県教育委員会では、長らく中断していた史跡整備事業を平成24年度(2012)から再開しました。事業に着手するにあたり、史跡の正確な情報を得るため、平成24年度(2012)から28年度(2016)にかけ、5か年にわたる発掘調査を実施しました。その概要を紹介します。
金堂
これまで金堂とされてきた建物跡の前面、塔の東側の位置で、本来の金堂の北東角にあたる掘り込み地業を確認しました。見つかった範囲は東西12メートル、南北13メートル程ですが、東縁から25メートルほど西側の調査区でも北縁部分が確認されています。掘り込み地業の規模は伽藍中軸線と塔との心々線で折り返すことで、東西28.5メートル、南北19メートル程と推定されます。金堂は講堂よりもやや小さい規模だったようです。また、南西部では耕作の邪魔になるため穴を掘って落とし込まれたと考えられる径130センチメートルもの礎石1個を再確認しました。
金堂北東角の掘り込み地業(北から、黒く見える部分が版築層)
落とし込まれた金堂の礎石(西から)
講堂(旧金堂)
本来の金堂が発見されたこと、また第1期調査において講堂の礎石据付け穴とされた土坑群が後世の撹乱と判明したことで、これまで金堂とされ基壇が復元された建物跡が講堂に修正されました。
経蔵・鐘楼
第1期調査で確認されていた掘立柱建物(SB08)を、鐘楼として再評価しました。SB08は3間×2間の南北棟の建物です。西面回廊の北延長線上にあり、本来の金堂が発見されたことで金堂と講堂の中間の位置にあたることとなりました。今回の再調査では、SB08と同じ位置で新たに掘り込み地業が確認されました。SB08の柱穴が版築を掘り込んでいることから、基壇建物から掘立柱建物へと建て替えられたことが分かります。掘り込み地業の規模から基壇建物は10尺等間程の規模が推定でき、SB08は7尺等間であることから、規模を縮小して建て替えています。諸国の国分寺では経蔵と鐘楼が東西対に配置される例が多いですが、掘立柱への建て替えに際し、梵鐘の重量に耐えられるよう柱間を狭めた可能性があるため、西側が鐘楼であったと考えています。なお、東側の調査では後世の削平が著しく、建物の痕跡は見つかりませんでした。
鐘楼と考えられる建物跡(南から、奥の黒い土は版築層)
僧坊
僧坊が想定される場所は後世の削平が著しく、建物の痕跡を見つけることができませんでした。しかし、第1期調査で確認されていた柱穴列(SA01)を再確認しました。SA01は東西方向の一本柱列で、柱間9間、総長24.7メートルを測ります。このことから、目隠し塀のような構造物と考えられます。僧坊の痕跡は確認できませんでしたが、現時点ではこのSA01と講堂との間に僧坊があったと考えています。
SA01(南から、柱位置に作業員が立っている。手前は復元された講堂(旧金堂)の基壇)
中門
これまで想定されていた位置より30メートル程南で、掘り込み地業を確認しました。規模は東西15メートル(50尺)、南北12メートル(40尺)程です。上部が削平されているため、根石等は確認できませんでしたが、中門の中央を壊して掘られた後世の堀斜面に落ち込む礎石2個を確認しました。掘り込み地業の規模から、中門は八脚門(正面3間の門)であったと推定しています。
中門全景(南から、人がいる部分が中門の掘り込み地業)
回廊
部分的ではありますが、東西南北の4面すべての掘り込み地業を確認しました。特に南東部はもっとも残りがよく、中門から東に25メートル程伸び、さらに北へ直角に折れ曲がって伸びる版築層と、その上面に逆L字状に並ぶ根石列を確認しました。根石は内側柱列にあたるもので、それぞれ3メートル(10尺)間隔で配置されており、桁行が10尺等間であることが分かりました。また、西面回廊では外側柱列の根石列が見つかり、図上復元での位置から推察すると梁行15尺の単廊であった可能性が高いと考えられます。また、回廊外縁に沿うように、版築を壊して形成された瓦廃棄層が確認されました。土層中からは大量の瓦が出土することから、回廊倒壊後に落下した瓦を埋めて整地し直した跡と考えられますが、その上層に浅間B軽石(1108年降下)の堆積が認められました。さらに、1030年に作成された「上野国交替実録帳」には、中門と回廊が無くなっているとの記載が見られないことから、中門・回廊は1030~1108年の間に倒壊したことが明らかとなりました。
回廊南東部の根石列(北から)
西面回廊外列の根石列(北から、作業員が立っている位置、3基が発見された)
南大門
第1期調査で確認されていた東辺の礎石3個を再確認するとともに、後世の堀斜面に落ち込んだ礎石2個を新たに確認しました。また東辺南部の石列2条を再確認し、それぞれが乱石積基壇の石積と考えられることから、建て替えが行われていると考えられました。第1期調査では南大門は八脚門と推定されていましたが、今回の調査で伽藍造営の基準線となった伽藍中軸線が判明し、その伽藍中軸線で礎石列を折り返すと八脚門では柱間が開き過ぎてしまうことから、10尺等間程の5間門(正面5間の門)であった可能性が高くなりました。
南大門全景(南西から)
築垣
南辺東部の調査で築垣下部を確認するとともに、築垣の版築層下から掘立柱塀の柱穴列、また築垣北縁を壊して掘られた大溝(SD27)を確認しました。築垣が壊れた後にSD27を掘り、その排土を築垣残部に盛り上げて土塁状にしていたようです。このことから南辺部は、掘立柱塀→築垣→土塁+大溝と変遷したことが推定されます。なお、SD27は掘り直しが行われていて、もっとも新しい時期の埋土上位に浅間B軽石が堆積しています。ですので、1108年にはSD27もほぼ埋まっていたことが分かりました。
掘立柱塀の柱穴列(上が南、右端中央の高まりは築垣下部、下の黒い土はSD27)
掘立柱塀の柱穴列(東から、奥に見えるのが復元築垣)
寺域(伽藍域)と伽藍配置
寺域(伽藍域)は地割としてよく残っていて、東・西・北辺は現在の道がその名残と考えられます。寺域(伽藍域)を設定するにあたっては講堂の中心を基準点としているようで、北辺は講堂の中心から108メートル(360尺:1町)、南辺は南大門の中心が講堂の中心から123メートル(410尺:1町+50尺)、合わせると南北長は231メートル(770尺:2町+50尺)となります。東辺については東大門の礎石を中心と考えると、講堂中心から111メートル(370尺:1町+10尺)、西辺は108メートル(360尺:1町)となり、合わせて東西長219メートル(730尺:2町+10尺)となります。
上野国分寺の伽藍配置は塔が回廊の外に置かれる型式ですが、塔と金堂が中心をそろえて東西に並んで建つという特徴的な伽藍配置となっています。同様の伽藍配置をもつ国分寺はあまり多くありませんが、陸奥・近江・但馬で見られます。
寺域(伽藍域)全景(上が北)
上野国分寺最新の伽藍復元図